「島田大祭」をもっと楽しむための裏話!祭りを支える究極の仕事人と法被に込められた粋な心とは?
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1695年に開催されて以来、330年もの歴史を誇る「島田大祭(しまだたいさい)」。花形とされる「大奴(おおやっこ)」や「鹿島踊(かしまおどり)」などの華やかさの裏で、緻密なスケジュール管理やしきたりを守り、祭りを支えているのが島田の青年たちです。この記事では、知っていると島田大祭をより楽しめるような裏話をお届け。法被(はっぴ)に隠された心意気や、330年の歴史を感じさせる風習など……知る人ぞ知る島田大祭の裏側に迫ります。
島田大祭の概要についてはこちらの記事をチェック
見えないところに込める「粋」と「鯔背(いなせ)」
祭りを盛り上げ一体感を出すのに欠かせない法被。島田大祭では、法被がリバーシブルになっていて、表を「表看板」、裏地を「裏看板」、さらにその下に着る衣服を「下看板」と呼びます。18歳頃~45歳の青年は「見せるため」の法被として絹の法被を、46歳以上の中老は「一歩下がって」綿の法被を仕立てることが多いそう。
実はこの法被、表看板なら最低でも一式10万円から、下看板なら一式20万円はかかる高級品!表看板のデザインは、所属する街(がい)(※自分の住む地域)や役職で統一されていますが、裏看板や下看板は個人で自由なデザインに仕立てるため、個性が出るんだとか。見えないところにお金を掛けるのが、昔から島田の青年・中老たちの「粋」です。
ちなみに、自分の所属する街にいる時や、交渉事など祭りの仕事をする時は表看板を、他の街にいる時やプライベートな時間は裏看板や下看板を見せるなど、タイミングによって青年や中老の衣装が変わります。例えば、こわい画の下看板(写真1枚目)は喧嘩の仲裁などの時に着て、優しい画の下看板(写真2枚目)は、ゆったりと祭りを見物するときなどに着ます。島田大祭に訪れた際にはぜひ注目してみてくださいね。
高い技術が必要な裏看板・下看板づくり
法被について伺ったのは、1863年創業、約160年の歴史を誇る呉服屋「鈴菱」の6代目・鈴木利明さん。幼い時から祖父に島田大祭について教え込まれ、そのマインドを受け継いできたそう。「みそ汁と同じで、衣装や踊りは親から子へ受け継いでいくもの」とユーモアを交えて語る鈴木さんは、1回の祭りで下看板を約30枚も仕立て、今までに仕立てた数は1,000枚以上にもなります。「1枚1枚に思いを込めて仕立てているので、全ての法被や下看板に思い出が詰まっています」。
裏看板や下看板のデザインは手描きで、全てオリジナル。鈴木さんが若い頃から集めているという3,000冊にもおよぶ資料から、1人ひとりに合ったデザインを選びます。「裏看板や下看板には、その人の人柄が表れます。本当に合ったものを作るためにも、3年前にはオーダーしてほしい」と鈴木さん。地色や絵を描く人など、1枚の法被にさまざまな職人が携わっており、相当な時間や技術、知識が必要です。「表・裏、下看板、どれもがリバーシブル(毛抜仕立)に着られるように、寸法は全て同じになるように作る。その技術も必要ですね」。
“本物”を残すことの意味
「島田大祭については、“よくぞ残ってくれた”という気持ちが強いです。法被をはじめ、いろいろな分野で年々職人の数が減って、草履一足でも残すのが大変な状況です。それでも、お金をかけて職人が育ててきたからこそ、“本物の良さ”が感じられる逸品が残り、島田大祭が一つの文化として330年という歴史を持つに至ったんでしょうね」と鈴木さん。島田大祭に訪れる人へ、「大名行列を見る際は座って、じっくりと見ていただきたいです。祭りは3日間ありますから、ぜひ一泊はして大祭を堪能してくださいね」とメッセージを頂きました。
祭りを支える伝令・応接
華やかな見どころが多数ある島田大祭。実は「一町一余興」という鉄則を守るべく、青年たちが裏で入念な準備を行っています。これは、祭りが開催される地域を「街」と呼ばれるエリアに分け、5つの屋台や鹿島踊、大奴などが練り歩きながら余興を行うのは、一つの街につき一つのみというルールのこと。一つの街で同時に二つ以上の余興が行われるのはご法度です。
島田大祭ではこのルールを守るために、まるで電車の運行ダイヤのような緻密なスケジュールが組まれ、全ての人がこのスケジュールに沿って動きます。街にはさまざまな役目の祭典委員・青年・中老がいますが、このスケジュールを組み、各街間での調整や連絡を通して祭りを裏から支えるのが、それぞれの街に所属する「伝令・応接」という役回りです。
「青年として祭りに関わるようになると、まずは伝令からスタートすることが多いです。伝令・応接は特に大変な係ですから、それを理解し、祭りの全体像を知った上で関わっていってほしいという思いがあります」。そう語るのは、21歳で伝令係として初めて祭りに参加した第五街の松倉さん。応接長も経験したのち、現在は島田大祭の保存振興会に所属し、伝令・応接を務める青年たちの良き相談役として頼られています。
しきたりを守った祭りの運営
伝令・応接が連絡や交渉を行うのは祭り当日だけではありません。各街に「本部」が開かれると、準備段階であっても伝令・応接を介した連絡が必須になります。具体的には、他の街へ入る時はまず伝令係がその旨を本部に伝え、街へ入る許可を得ます。そののち、交渉をすることができる折衝権を持った応接係が伝令係と共に他の街へ入り、そこで初めて本部にて交渉を行うことができます。電話での連絡は一切禁止されており、他の街と連絡をとるためには全て直接足を運び、この手順を踏まなければなりません。これは江戸時代から続くしきたりであり、330年の歴史を感じることができるポイントでもあります。
これを踏まえて、絶対に外せない「一町一余興」の原則を守るため、「島田大祭」のスケジュールが組まれます。元来、各街の境界線は開催される年によって変わるため、「島田大祭」が開催される年の5月頃から、まずは規約についての話合いを始め、各街の境界線を決定。その後、6月頃からスケジュールのラフのようなものを作成し、さらにそれらを各街の伝令・応接が調整することで形になっていきます。手打ちの日が決まっており、仕上がらない時は夜を徹して作業することもあるんだとか。
「このスケジュールによって、どの街で、どの時間に余興を披露できるかが決まります。どの街もできるだけ見どころを作りたいので、スケジュールの交渉は緊迫します。伝令・応接の腕の見せ所の一つでもありますね」。
大変でも、やりがいのある伝令・応接
話を聞くだけでも大変なことが伝わってくる伝令・応接。それでも長年その役目を務める人は、どんな思いで伝令・応接を担っているのでしょうか。
「祭りを通して、“楽しかった”とか特別な気持ちを抱くことができて、自分もそこに関わりたいと思うようになったのが始まりでした。大変なことも多いですが、なぜ応接をやるのか、なぜ自分が必要なのか。その意味を考えて、祭りに取り組むように心がけてきました」。そう語るのは、第一街で、高校生の時から地踊りで祭りに参加し、応接や青年長などを歴任してきた兼岩さん。現在は全ての街の青年をまとめる「年番部会」の部会長を務めています。
祭りに関する歴史やしきたりは、先輩から教えてもらったり、勉強会で学んだりするそう。「絶対に覚えないといけないという決まりはないけど、覚えているほうが応接の際に役立つことが多いし、他の街の応接に負けないためにも、知識があった方がいいと思いますね」と兼岩さん。“自分が街の代表である”というプライドが、伝令・応接を務める青年を後押ししているのかもしれません。
時代に即した変化で、親しまれる祭りを目指す
スケジュールを組んだり、他の街と交渉したりと、実務を通して“しきたりを大切にする気持ち”や“応接のやりがいや祭りに対する姿勢”を若い人に学んでもらっていたという伝令・応接。今年はコロナ禍で通常のやり方ができないので、大井神社の社務所を借りて各街のスケジュール交渉などを行っています。
「12カ所の本部を18時~22時の間に全て回ってあいさつをする『応接回り』では、街ごとにちょうちんを持って走り回るんです。火を消すタイミングやちょうちんを置くタイミングなども全て決まっていて……コロナ禍ではそういったことができないので、大変だけど祭りの楽しい部分でもあったところが引き継がれなくなってしまうのでは、という危惧はあります。とはいえ、祭りが始まった当時と現在の生活様式は大きく異なるし、この機会に時代に即した変化を取り入れつつ、格式はあるけどいろんな人に参加してもらえる祭りを目指したいです」とお二人。コロナに負けず、祭りを継続していくための手立てを模索しながら、島田大祭の成功のために一丸となって運営に取り組んでいます。試練によって、島田大祭を引っ張っていく青年たちの思いが、また一つ団結していくのを感じました。
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